ダロウェイ夫人(7)

夜中になぐり書き。後で削除するかも。

前回、ダロウェイ夫人とセプティマスを「もともとは同じ型で作られた二人」と書いたけど、それだけじゃ足りない気がしてきた。
そうそう、「フラッシュ」にも書かれてたけど、「二人で足りない部分を補いあう」っていうのが抜けてた。
ダロウェイ夫人の正気とセプティマスの狂気、そして生と死、どちらかだけでは欠けていて、二人揃ってはじめて一つの型になるということかな?

まあ、社会というものははおおむね正気(という言葉を使うなら)な人々が回しているのだろうけど、そしてそこからはみ出た人々は排除されてしまうのだろうけど、排除というのは単に人間の基準によってでしかないわけで。
だってこの世界は本当に正気な人たちだけのものなの?
この世界に存在するもの(起こった出来事)は、そもそも存在すること(起こること)を世界に許されている者(事)ばかりなんじゃないのかと。(と、ミラン・クンデラも言っておりました)
ウルフはその「存在」ということそのものの謎や不思議さに強く惹かれていたのでしょう。
私がここにいて、あなたがそこにいるということの不思議。
…なぜここにいるの?どうしてここに在るの?
常識や正気(そして生)、そんな一方的な見方だけでは決して解けないだろうその謎に。
(「ダロウェイ夫人」ラストの一行は、「そこにクラリッサがいた」)

どんなに忌み嫌われようと、誰にも望まれず生まれてこようと、社会から排除されようと、それは全てただ人の判断基準で測られてるだけ。
存在するものは全て許されてこの世界にいる。
「ぼくはここにいたい。ぼくはここにいていいんだ」とエヴァのシンジも気づいたように(周りの期待を裏切って戦わなかったしても笑、自分がいたいと思ったらそこにいていいんだと)、全ての子供達(存在)はみな祝福されてこの世界に生まれてくるんだろう。

夜中なので熱く語ってみた。厨二病からは一生抜け出せそうもないv
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ダロウェイ夫人(6)

かなり間が空いてしまいました。
私生活がどうにもバタバタしています。

このブログ、簡単なアクセス解析が付いてるので時々見てみるんですが、面白いですね。
どんなキーワードで検索されてきてるのか…。
私もダロウェイ夫人のことが知りたくて知りたくてそりゃもう色んなキーワードで検索しまくったもので。
セプティマスはダロウェイ夫人の投影なのか?という検索でこられた方がいらっしゃたので私的意見ですが書いてみたいと思います。

私が思うに、セプティマスはダロウェイ夫人が別の環境、そして別の性(男性)であったならこうであっただろうという人なのではないかと思います。
同じ魂を持ちながら、異なる環境に生まれた2人なのではないかと。
クラリッサが若い頃、時代の風潮に流され社会主義に傾倒したように、セプティマスは戦争が起きた時、同じように時代の風潮に傾倒して自ら兵士として志願します。
クラリッサ(またはウルフ自身)が社会主義活動に挫折したように、セプティマスも戦争で大切な友達を失い深く傷つきます。
二人とも、自らが時代の考え方に振り回されていたことを感じています。

だけど受けた傷の大きさは比べ物にならない。
戦争という大きな時代の波が起きた時、同じ魂を持つ2人でありながらも、階級が低く男性であるセプティマスは死に、特権階級そして女性であるダロウェイ夫人は生き残る。
クラリッサは階級の特権から、リチャードが戦線に行くことを阻止することができた。大切な人を守ることができた。(このことはリチャードを昼食会に呼んだブルートン夫人の独白にちらっと出てきます)
でもセプティマスにはそれができなかった。(大事な友を失い、セプティマスは感情を失います)
同じ魂を持ちながらも、生き続けようとすれば生き続けられる者と、そうではない者。その生まれながらの差異をウルフは描きたかったのではないかなあ、と。

結婚についても、二人とも多少打算的でありながら、相手を愛して深く感謝している所が同じですね。
ちょっと冷たく感じられるのは(束縛よりもある程度の自由を求める)、人に対して臆病で、自分をまるごと相手に預けられないウルフの性質の投影なのでしょう。

そうそう、精神科医に対しても、クラリッサは特権を利用して逃れたでしょうけど、セプティマスは追いつめられ、捕まるのを逃れるには飛び降りるしかなかったんですよね…。

※追記
この前、ウルフの「フラッシュ」という本を読みました。
これは実在した女流詩人のちょっと変わった伝記なのですが(犬視点)、ウルフはこの女流詩人と飼い犬のフラッシュを、「同じ鋳型で作られながら、別々に生まれついた2人(1人と1匹)」と書いています。(「同じ鋳型」というのはプラトンが言うところのイデアというものでしょう)
このことからも、「生まれながらの差異」というものがウルフのテーマの一つではないのかな、ということがわかります。
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ダロウェイ夫人(5)

考え続けてもうすぐ2カ月か…。
納得できる解説が見つかればこうまで長引くことはなかったと思うけど。
窪田憲子氏の解説本はまだ読んでません。図書館で取り寄せてもらってます)
それはまあいいとして、今回で終わらせたいと思ってたけどどうやら終わりそうにない…。
「めぐりあう時間たち」を別記事にすればいいんだろうけど、やっぱり比較して書きたいし。

えーっと、今回もいくつか思いついたこと。多義性と作業療法について。
そう、そもそもなんでこんなに自分的感想&解釈が長引くかというと、「ダロウェイ夫人」は一つの事柄に対して多くの意味(多義)が含まれているからなんですよね。
セプティマスの死ということ一つに対しても、
・型外れな者を排除しようとする社会に対する抗議
・「幸福の瞬間」を閉じ込めようとする芸術的行為
・肉体(自分という枠)を捨てて魂そのものとなり、人間の本質を知ろうとする試み
・肉体(自分という壁)を破り、理解し合おうとするコミュニケーションの試み
・死(&狂気)の側からみた生というもの
いま考えられるものだけでこれだけある…。(まだあるかも)

ウルフの多義性について。
一つの物事に多くの意味を見つけるには、物事を多方面から見ないとできない。ウルフのこの性質は父母の両方から受け継いだものらしいです。ウルフの母ジュリアは優しく世話焼きな人である一方で、少々皮肉を楽しむ一面を持っていたとのこと。皮肉ってのは斜めから見ること、つまり別方向から見るということですよね。
ジュリアは先夫が亡くなった時に信仰を捨てたそうだし(貧困な人々に対する慈善行為を始めたのもこの時期)、かなりの懐疑主義者であったらしいです。
神(既知のもの。唯一のもの)を疑うことから哲学は始まったそうですが、ジュリアがウルフの実父スティブン氏に惹かれたのも当然のことだったのかも。(スティブン氏は哲学者であり、無神論者でもあります)

「型」というものについても、ウルフは色んな方向から見てる。ウルフは「型外れ」を排除しようとするもの(=断罪するもの)は憎んだけど、型そのものについては肯定もしている。
クラリッサは病気をしてから特に自分が「無感覚」になっていくことに恐怖していて、その上老いからも「もう結婚することも、子を産むこともない」と自分が「無価値」になっていることに虚しさを感じている。
感じもしない、価値もない…。中身は既にからっぽなのにただ毎日の基本的な習慣から「型」だけが残っているような感覚。「リチャード・ダロウェイの妻」という型だけの存在。
恐れや虚しさが原因で、自分が何をどう感じ、どういう人間だったのかがわからなくなる。冷静な判断力を失い、自分を信頼することができなくなる。
だけど日常生活の引力は強い。ふと厨房から料理人の口笛が聞こえ、どこかでタイプライターを叩く音も混じって、クラリッサは日常に引き戻される。
「クラリッサは敬意を表してホールのテーブルの上に頭を垂れ、礼をして、祝福され浄化されたような気分になった。電話の用件を記した便箋を手に取りながら……神など信じたことはないけれど、だからこそ日々の生活の中でみなにー誰よりも夫リチャードにー感謝しなければね」
力強い日々の繰り返しが、クラリッサという「型」を支えてくれる。自分を好いてくれる人達。ありたい自分、穏やかで寛大な自分でいさせてくれる人達。その人達が、自分への信頼を取り戻させてくれる。
だから心はたとえ一時期失われたとしても、再び自分自身のもとへ帰ってくることができるのです。

作業療法について。
単純な作業を繰り返すこと…作業療法は、精神を安定させる効果があるとされてる。
何が向いてるかは人それぞれだろうけど、日常生活…作って食べて片付けて、掃いて拭いて整えて…なんてのでもいいよね。花に水をあげたり。
クラリッサは不安定になったとき、縫物をしてた。今日着るためのドレスを繕ったり。そうすると心は落ち着き、静かに満ち足りて、世界全体が「それだけのこと」と言っているように思える。
心がざわざわする原因は色々ある。でもそれがどうしたっていうの?地球は回り続けてる。
セプティマスも妻レーツィアが縫物をしているのを見て心が落ち着く場面があった。
「セプティマスは妻が縫うところを見ながら、ゆっくりと煮立つ薬缶のような音だ、と思った。ぐつぐつ、ぶつぶつ、いつも忙しい。小さくて細くて強い指が布をつまみ、針を刺す。針は光り、まっすぐに進む。太陽は照っては曇り、房や壁紙を光らせたり曇らせたりするが、ぼくは待とう。ぼくはこの暖かな場所で待つ」
力強い繰り返しの力が、いつか心が帰ってくるのを待っていてくれる。
ちなみに、ウルフの夫レナードは病み上がりの妻の作業療法に役立てば、という気持ちから出版社を始めたそうです。ウルフは創作の暇に自ら活字を拾ったり、本の小包づくりをして楽しんだとのことです。

繰り返しは、いつか「型」になっていくんですよね。
「型にはめる」なんていうと聞こえは悪いけど、「型」には良い面もあるということをウルフは実感していたのでしょう。
そういえば「罪と罰」でも引きこもって神経衰弱おこしたラスコーリニコフに、判事ポルフィーリィが「生活です!とにかく生活することです!」と説教してたっけ。
「嵐が丘」では恋だ愛だと泣き喚いている主人公たちを、召使いのネリーとジョウゼフがしっかり支えてた。あの人たちがいなかったら物語は続かない。みんなすぐに死んでるって。(笑)
フローベールは未読だけど、彼の、
「生活においては規則正しく整然たれ。作品において過激で独創的たらんがために」
という言葉を別の本で見かけて以来ずっと引っかかってる。彼も同類だな…。
規則正しくしてないと、心はぐらぐらと不安定で、どこかへすっ飛んで行ってしまう。それは狂気と紙一重の世界。そこから生み出されたものは独創的かもしれないけど、冷静な判断を欠いた作品はただの独りよがりな妄想に止まってしまうでしょう。
ウルフはフローベールに共感していたようです。
(もちろん芸術家がみなそうというわけではなく、色んなタイプの人がいると思います。ゴーギャンは規則正しさや慣習を投げ捨てることで作品を生み出したし)


ふう〜。ここまで書いてやっと準備できたかな。長い前置きだった。
次はいよいよ「めぐりあう時間たち」に行こう。長くなりそうだけど。

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ダロウェイ夫人(4)

まだ続きますよ!
〆に入る前にもう一段落。

クラリッサの娘、エリザベスについて書いてなかった。
エリザベスは17歳で、美しいけどかなりぼんやりしたタイプの女の子です。この年頃の女の子にしてはファッションにもあまり興味がなく、家庭教師のミス・キルマンと一緒に部屋に籠って聖書を読んだりしている(これには母クラリッサは閉口…笑)。父親に似て、動物好きだったりします。動物はクラリッサも好きだったっけ。
この娘をクラリッサとミス・キルマンが取り合うところが面白いな、と。
ダロウェイ家の階段で、母と先生の対決を目にしたエリザベスは、「二人が憎み合う所を見るのは嫌」と忘れ物を取りに行くふりをして逃げてしまいます。
この後ミス・キルマンと買い物に行くエリザベスに向かってクラリッサは「わたしのパーティを忘れないで!」と叫びます。
買い物が終わった後、キルマンはエリザベスをパーティに行かせたくない一心で、「私は招んでももらえませんしね」などとつい愚痴を並べてしまい、エリザベスは息苦しさを感じて店を出て行ってしまう。
「わたしを忘れないでね」とミス・キルマンは声を震わせて呟く…。

二人ともエリザベスに向かって「わたしを忘れないで」と言ってるんだなあ。
クラリッサが「前時代の家庭の天使」、ミス・キルマンが「次世代の解放された女性」とするなら、二つの時代が「未来」を取りあっているという構図になる。
どちらの時代も「未来」を取りこもうと必死だけど、「未来」はまだまだぼんやりしているんですね…(笑)。
でもこの「未来」は冷静で、素直に両方の良いところ、悪いところを認めてる。
「母はキルマン先生に対してとても丁寧だ。一方、先生は母と世間話すらしようとはしない。母の話は先生を退屈させる。先生は恐ろしいほど頭がいい。先生の前ではなんだか自分がとても小さく思える」
店を出て一人になったエリザベスは、バスに乗り、自由であることに歓喜する。そして自分の将来を思い描く。「わたしも職業を持ちたい。わたしの世代には女にもすべての職業が開かれると先生が言った」
…ウルフは全ての人が自由であるように、そしてそれぞれの時代の良いところを選びとっていってくれるように、「未来」に願いを託してたんだろうな。

あ、クラリッサが「わたしのエリザベス」と言ったことについてピーターが批判してる場面があった。
「わたしのエリザベス?あの言い方は鼻につくな。本人がいやがっていたじゃないか」
…娘を取り込もうとしてるクラリッサを見透かしてるなあ。こうやっていつも知ったふりして批判するからクラリッサに振られるんだよねえ…。隠しておきたいコンプレックスをいつもいつも傍で批判されたらたまらない。(クラリッサはピーターの心の中の批判をそれは敏感にキャッチするのです)。それにピーターはクラリッサとサリーの「幸福の瞬間」も嫉妬から邪魔したし。(笑)
でもこんなふうにクラリッサとピーターは言葉にしなくてもいつもお互いの考えていることが理解できた。「嵐が丘」のキャサリンとヒースクリフみたいに…。そういえばピーターはサリーに「嵐が丘」をプレゼントしたと言ってたっけ。(クラリッサと俺そのものだろ?と言いたかったのかも笑)
自分で選んだこととはいえ、クラリッサはピーターと別れてから、何年も苦しんだと言っていた。
一緒にいると頭に来るとしても、自分の半身のような人と別れるのは身を引き裂かれるような思いだったろう。

ピーターはウルフの実父スティブン氏、リチャード・ダロウェイはウルフの母ジュリアの先夫、と考えていたけど、この三角関係はウルフ自身の恋愛でもあるという気がしてきた。
ウルフが一度婚約してすぐ破棄したというリットン・ストレイチー(ブルームズベリーグループというウルフが属していた知識集団の一人)がピーターともとれるのかも…。この人についての資料が手元にないので何とも言えないですが。
それでもってリチャードにはウルフの夫、レナード氏が重なるような?
ウルフ本人と、その創作活動を支え続けたレナード氏。「想像もつかなかったほど私の生活を、瞬間ごとに、ますます幸福にして下さるあなた」とウルフは夫のことを日記に書いている。
クラリッサも「すべてはリチャードのおかげだ。あれほど幸せだったことはなかった」と。

だからこそレナード氏をひどい束縛夫(愛ゆえですが)に描いた「めぐりあう時間たち」に納得できないんですけどね…。
あの映画みたいに束縛に苦しむ環境の中でウルフが名作「ダロウェイ夫人」を書けるわけがない。
それにあのラスト。ウルフは夫の愛と束縛から自由になるため自死したの?違うでしょ?あれじゃレナード氏が可哀想すぎるよ…。あんなに優しい、こまやかな心配りの手紙を書く人なのに。

次回、今度こそ〆に入ろうと思います。
もういいかげんすっきりしたい。

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ダロウェイ夫人(3)

まだ続くんだ…。
逃避もいい加減にしたい今日この頃。
まあ〜、なんでこんなに突き詰めるはめになったかというと、原動力としては「めぐりあう時間たち」に激怒して、「こんなん違う!」と感じたことを証明するために色々考えてきたわけなんですが、あまりにテーマが広がりすぎてどこまで行ってしまうやら…。だって調べるほどに色んな側面が見えてくるんだから仕方ない。とほほほ。
正直疲れて息切れ状態なんだけど、今まで読んできた本とリンクする事柄も多々あるし、勿体ないから書いてみる。

とうことで、以下なんやかんや言ってますがたんに私的な考察ですので。
今回はダロウェイ夫人の同性愛傾向、そしてフェミニズムやジェンダー意識、社会主義について。(広がったなオイ)

ウルフのフェミニズム性は前記のとおり、母への生き方への疑問に端を発している。(と思う)
ウルフの母ジュリアは家族の世話に加え、貧しい人達を訪問したり、相談に乗ったりと慈善活動にも忙しく、そのためウルフは満足に構ってもらえず、そのことに不満を持っていた。寂しかったのねえ…。
そしてそのような母の姿は典型的な「ヴィクトリア王朝時代の家庭の天使」と重なる。家庭を守り、そのために自分を犠牲にして家族や周囲に尽くすのが正しい女性の生き方であるという前時代的な女性像。
女は家に入って家庭を守るべき!なんて日本にもそういう考え方がありますよねえ…。この現代でも田舎の嫁なんて奴隷的に働いて当然の存在なのさ。ブツブツ。
…脱線したので修正。男兄弟は学校へ通ったにも関わらず、「女には勉強など不要」とのその時代(父)の考え方から、ウルフは学校へも行かせてはもらえませんでした。幸いな事に本はふんだんに読むことができる環境でしたが。
彼女は女性の地位の向上、そして家庭内における奴隷的な立場からの解放を願って、全ての人民の平等を唱える「社会主義」に傾倒することになります。
「ダロウェイ夫人」の中にも、若き日のクラリッサは親友サリーと「人生のこと、社会改革のことについて何時間もおしゃべりした。私有財産をなくすための団体を作るつもりで、発会趣意書まで書いた」という文があります。「書いただけで送りはしなかったけど」って。(笑)
では50代になったクラリッサは、若き日の高尚な志を忘れ、結局は搾取する側の俗物になり下がったのでしょうか?堅実なダロウェイ氏を選んで結婚し、安定した生活を甘受して。そんな人生に虚しさを感じ、自分の選択を後悔しているの?
その疑問に答えるかのように登場するのがダロウェイ家の家庭教師、ミス・キルマンです。やっと彼女のことが出せた〜v(好きなんですv)
ミス・キルマンはクラリッサの一人娘エリザベス(17歳)の家庭教師で、40過ぎのドイツ人家系の女性。熱心なクリスチャンでもあります。彼女は貧困な家庭の出でありながら、勉学に励み、教師の職を得るもこの時期イギリスの戦争相手国だったドイツの家系であるがゆえに(「ドイツ人はみな悪人です」なんて言えなかったがゆえに)、学校をクビになってしまう。そんな時たまたまダロウェイ氏と知り合い、家庭教師の口についた。彼女はダロウェイ氏を「とても度量の大きい方」と尊敬しています。
でも彼女はダロウェイ氏の妻であるクラリッサのことは心から軽蔑している。以下、キルマンの独白。
「こんな贅沢の中にいて、どうして社会の改善など目指す気になれるの。いつまでもソファに寝転んでないで工場に行きなさいよ。あんたも、お仲間のマダム連中も。
ばか、まぬけ。悲しみも喜びも知らず、人生を無為に過ごす女め!この女に打ち勝ち、仮面を引っ剥がしてやりたい。この場で押し飛ばしてやれば、きっと胸がすくだろう。だがやっつけたいのはこの女の肉体ではなく魂。偽物の魂だ。わたしが勝者であることを思い知らせたい。この女を泣かせ、めちゃくちゃにし、辱め……。それは私の意志ではなく、神のご意志だ。宗教の勝利だ」

…ミス・キルマンはこの時代、女性でありながら自分自身の努力で学を得、手に職を得、男性から独立して生きています。「私はドイツ人です」と、保身を捨て誇りを持って本音を言える女性。女性解放の体現者。
だけど、上の独白に現れている傲慢さは何?持てる者は持たない者に全てを差し出して当然?持たないものは全てを奪い取る権利がある?
これが若き日のクラリッサが夢見た社会主義のなれの果てなの?
社会主義が何を奪ったか。それは歴史が証明するとおり。富める人や知識人の大粛清が行われた歴史…。(ユダヤ人も豊かだったから狙われた)
ヴィクトリア王朝時代、男性と肩を並べようとした女性は「屋根裏の狂女」と呼ばれ、はしたない人間として家の中に幽閉された。それは同時に「家庭の天使」としての女性が求められた時代。
でも時代は変わり、今度は解放されたはずの女性が「家庭の天使」たる女性を攻撃する。
ある時代ではもてはやされたものが、別の時代では貶められる悲劇。搾取されていた者が今度は搾取する。延々と繰り返される粛清の歴史…。
クラリッサは言う。「愛と宗教。大嫌い。どちらも大嫌い。この世で最もむごいもの。無様、強引、傲慢、偽善、盗聴、嫉妬。わたしが誰かに考えを改まらせようとしたことなどあっただろうか?わたしはどんな人にもその人自身であってほしいと願ってきた。なのに愛と宗教はそれを破壊する。魂の秘め事を破壊する」
回心せよ!と宗教は言う…。回心しなければ天国には入れない。これもまた排除ってわけね…。
(ちなみにクラリッサは大きな意味での愛と宗教が嫌いと言っているのではなく、自由を奪うものとしての愛と宗教が嫌いと言っているのだと思います。ここらへんが誤解される所以なんだろうなあ。言葉というのは多義的なものだからね←もしかしてこの辺も計算されてるのかも?言葉の多義性を描くために)

ミス・キルマンはダロウェイ家の階段で、クラリッサと無言の戦いをします。結果はクラリッサの勝利。キルマンは打ちひしがれ、教会で祈ります。
「私は肉(肉体)の悩みに負けた」と。クラリッサの美しさ、身なりのよさ、そして誰が相手でも礼儀正しくあろうとする姿勢に負けた。
すべては誰にも愛されないこの肉体から始まった、とキルマンは思う。何を着ても似合わない。見るに堪えないという辱め。他の女(クラリッサ)はこの苦しみから逃れているではありませんか。この苦しみは誰にもわからない…。キルマンの問いかけに、「神がご存じです」と牧師は言う。「知恵は苦しみから得られます」
キルマンは祈り続ける。愛と憎しみから自由になることを願いながら。神の前に、あの世の入口の前に、女(肉体)ではなく、一つの魂として。
自分が生まれ持った肉体、そして環境…。そこから生まれる嫉妬。憎しみを生んだ元凶が自分の内にあることに彼女は気付いている…。
(キルマンはダロウェイ氏には嫉妬しない=憎まないんですよね…。土俵が違う人間には嫉妬も生まれないということか。やっぱり男女の差は大きいということですね)

高尚な精神のはずだった社会主義も、個人的な欲望や嫉妬の前には怪物と化してしまいます。クラリッサのかつての理想はバラバラに崩れ去りました。クラリッサは思います。「望んでも望んでも人間は本質的な理想(中心)へは辿りつけない」と。誰もが自分という枠の中での理想をかざし、そのため諍いが起き、暴力によって他者の自由は奪われる。
話し合いで解決しようよ!という平和主義者のウルフにとっては辛すぎる現実。話し合いの精神などねじ伏せる圧倒的な戦争という暴力が吹き荒れるこの時代、ウルフの絶望はどんなに深かったでしょう。

ウルフは自分自身も時代の価値観に囚われていること、そして搾取する側の差別意識を捨てきれないことを痛感しています。
社会主義運動の一環として、女性解放を促す集会に参加したウルフは、労働階級の女性達の要求〜労働時間の短縮、生活の向上(お湯や電気を引いてほしい)〜と、自分の要求〜文化的な自由〜の差異に気付きます。ウルフは肉体労働などしたことがないので、どうしても彼女達の気持ちに共感することができないのです。また、彼女達は階級の異なるウルフに対して嫉妬をむきだしにしたのかもしれません。(ミス・キルマンのように)。彼女たちとの「ずれ」の感覚はほとんど肉体的苦痛だったとウルフは日記に書いています。苦しんでいる人達に共感できないこと…。それはウルフにとってかなりのコンプレックスとなったのではないかと思います。何といっても彼女たちはウルフと同じ女性なのだからなおさら。

生まれた階級の違いにより、人種の違いにより、違う人間であることにより、人と人とが完全に理解しあえないとするなら。ではそこから自由になれば、人と人とは真に理解しあえるの?(エヴァの人類補完計画みたいになってきた汗)
クラリッサは言う。死は挑戦。死はコミュニケーションの試み。死には抱擁がある…。セプティマスは挑戦したのだと。
肉体を捨てて魂そのものとなり、本質を知ろうとする試み。分かたれる前にいた場所に、魂が本当に帰れるものならば。

「もはや恐るるな、太陽の灼熱も、冬将軍の怒りも」
シェイクスピアの一説をクラリッサは呟き、生へと戻ります。
状況は果てしなく変わり続ける。でもどんな状況の中でも、たとえそれが絶望的に思えたとしても、諦めずに自分にできる最善を尽くすこと。それこそが恐れを撥ねのけ生き続ける道であると信じて。
クラリッサは家の向かいの老婦人を美しいと思う。若さの力や輝きを失いつつあるその人の中に、生そのものの中に、彼女は美しさを見出したのだから。


人生は生き辛いものですねえ…。逃れても逃れても、手を変え品を変え、顔を変えて断罪者は現れる。そもそも「逃れなければいけない。隠さなければいけない」という思い込み、この自己肯定感のなさこそが囚われているということなんだろう。「逃げも隠れもしなくていいの!私は私なんだから!私はここに居て当然の権利があるの!」という自己肯定感がどうにも持てない人種なのですよ。生まれてきてすみませんってやつ?
自分はアウトサイダー(断罪される側)なのだというこの感覚…。それがどこから来るのか知ってる。
だからウルフは両親を書くことに拘ったんだ。
これは「めぐりあう時間たち」と絡めて詳しく書いてみたい。

あ、同性愛傾向について書けなかった。あれは同性愛ではなく、自己愛なのだと私は思ってます…。でも今回はここまで。

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ダロウェイ夫人(2)

性懲りもなくまだ考え中。
納得いくまで書く。

頼んでた本が届いたので読みましたv
「ヴァージニア・ウルフ研究」(神谷美恵子著)
著者は既に故人ですが、ハンセン氏病患者の治療に尽力した精神科医であり、美智子皇后の相談役でもあった人だそうです。
ウルフの作品よりも病跡の観点から書かれた本なので、残念ながら「ダロウェイ夫人」の解説といえるものはあまりなかったのですが、ウルフの日記や家族関係など詳しく書いてあるので結果「ダロウェイ夫人」についても確認できたことが多々ありじつに実りの多い本でしたvvv
著者は精神科医としてウルフの病状に興味があったのはもちろんでしょうが、ウルフその人に魅了されたんだろうなあ、という感じがします。
ウルフ研究をライフワークとしながら、ウルフの日記の全てが公開されるまでは断定的な事など書けない…と病気によって自身の時間が残り少ないことを知っていながらも公開を待ち続けた著者に研究者としての真摯さが伺えます。
なんといってもはるばるイギリスまでウルフの夫レナード氏に突撃取材に出かけた情熱と行動力には感服してしまいます。
レナード氏と著者は氏が亡くなるまで心温まる手紙のやりとりをされていました。この手紙(&レナード氏訪問記)も本に掲載されています。
こんなに盛り沢山なのにAma○○nで22円て…!送料入れても300円しないよ(涙)。図書館にはなかったので助かりましたが。

お陰さまで一番の疑問点が解けてすっきりしました。
「ダロウェイ夫人」中、最大の疑問。それは、「クラリッサは夫であるリチャード氏を愛していたか?」ということ。…どうでもいいことですか?(笑)でも絶対に譲れない!
いや、私的な感想では答は「YES」に決まってますよ!決まってるんですよ。
でも色んな解説やレビューを読むと、「クラリッサは情熱的な恋人ピーターを捨て、ダロウェイ氏との安定した生活を選んだことを後悔している」なんて説が大多数でしてね…。
「ダロウェイ夫人は平穏な今の生活に虚しさを感じ、元恋人ピーターとの再会に昔の情熱的な恋を思い出す…」なんて、どういう不倫小説の常套文句なんですかこの紹介文は!(怒)
断じてそんな話ではないと思うんですが、もしや私の読み方が間違ってるの?とモヤモヤしてたんですよ。でも買った本のおかげで謎が解けてすっきりv
謎を解く鍵は、ウルフの母、ジュリアにありました。


ウルフの父母は再婚同士なんですね。お互い子連れ(父スティブン1人、母ジュリア3人)で、再婚した後にも4人の子が生まれるという子沢山。ウルフは再婚後3人目の子供となります。
父スティブンは自他共に「皮膚が無いみたいな男」と呼ばれるほどピリピリと過敏で感受性が強く、頭はいいけど偏屈な人。母ジュリアはおおらかで優しく、ユーモア溢れる世話好きな人だったようです。(そして非常な美人v) ウルフは両方の性質を受け継いだんですねv
で、それがなぜ「ダロウェイ夫人」につながるのかというと、母ジュリアの先夫という人が大変実際的で単純かつ親切な紳士で、スティブン氏とは間逆の性質の人だったらしいです。
その人との結婚生活において母ジュリアは「人が成り得る幸せの中で一番の幸福」を手にいれたのだ、とウルフは日記に書いています。
だからこそその人の死は母にとって「人が成り得る不幸の中で最も不幸」だったのだと。ほがらかな女性だったジュリアは夫の死後嘆き悲しみ、別人のように明るさを失っていたとのことです…。
その後色々あってジュリアはスティブン氏と再婚しますが、スティブン氏は過敏な性格のためいつも情緒不安定で、まるで大きなだだっ子のようだったと。
ジュリアはスティブン氏をもちろん愛していて(同情が大きかった?涙)、そのためにもう一度「生きなおす」決心をしたのは間違いないですが、子供8人に加え「大きな子供」のような夫の世話に明け暮れ、若くして亡くなってしまいます。
このようなバックグラウンドがあるからこそ、「ダロウェイ夫人」においてクラリッサは感受性が強く不安定なピーターよりも、実際的なダロウェイ氏を選んだということになるわけですね。
クラリッサが「ピーターと結婚したなら共倒れ、共に身の破滅」と言っているのは、過敏な夫に気を使い、身を削っていく母の姿をウルフが幼い頃から見てきたからなのでしょう。
(※ウルフのフェミニズム性は、母の生き方への反発に端を発しているようです。母ジュリアはまるで奴隷のように周囲に尽くし忙しすぎたため、ウルフは母と二人きりでいた記憶などなく、そのことを若い頃は少なからず恨んでいたようです)

つまり「ダロウェイ氏=母ジュリアの先夫」「ピーター=ウルフの父スティブン氏」となります。
「人は二人の人間を同時に愛することが可能だ」ともウルフは日記に書いています。
つまりクラリッサはリチャード氏を心から愛していた。そしてピーターももちろん愛していた。(心の中だけなので別に不倫ではない)
ふう〜。すっきりv

ウルフは幼い頃は父親っ子だったそうで、偏屈で頭のいい父スティブンをとても愛していたようです。成長してからは愛憎入り混じったようですが、父の死後は「父の優しいところ、良い所ばかり浮かんでくる」とも書いてます。
ピーターがあんなにも愛すべき人物として描かれているところにも、ウルフがどんなに父親を愛していたかが伺えます。
一方、忙しさからろくに構ってもらえなかったため、反発を感じていた母親に対しても、ウルフは中年になってから考えを改めたようです。
母はいったい自分に何を残してくれたのか…。それは本当は、とてもとても大きなものだったのでは?
ウルフは創作において、そして自分という人間の原点においても母がいかに重大な存在だったかを認め、それを「ダロウェイ夫人」そして「灯台へ」で描いたのだと思います。


他にもわかったこと。
クラリッサは凡そ3人の女性からなる人格の総合体なのでは?ということ。
・一人目…ウルフが日記で「ある程度ダロウェイ夫人のモデルにした」と書いているキッティなる女性。(ウルフが現実の社交界において指針とした人物。頭がよく、良識があり、社交界に対して適当の批判力も持っていた人)
・二人目…ウルフの母ジュリア。(人に尽くした無名の人。いつもその場を和やかかつ印象的なものにする気配りの人)
・三人目…ウルフ自身。(その無名の人=母が人々に残した想い出は、その美しさを考えると、ある意味ひとつの芸術作品といえるのでは?と考える人)
この三人が統合されたのがクラリッサという人物なのでは?ということ。
だから色々矛盾が出てきて、誤解されやすいのかも?「こういう人はこういうことを考えるはず」という一つのパターンに収まっていないから。
でも考えてみると、そんなパターンどおりの人間なんて本当にいるの?
人から見た自分。自分が考える自分。他人の評価を聞いてその枠に当てはめようとする自分。でも自分や他人の考えには偏見や誤解、嫉妬や羨望なんかも含まれていることも考えると、もうなにがなにやら。
ウルフはひな型に収まらない人間というものを描くために、意図的に計算して、あえてこういう方法(三人ごちゃまぜ)をとったんじゃないかな?
「ダロウェイ夫人」の解説の多くは「クラリッサの閉塞感=主婦の閉塞感」と捉えているけど、そもそもこの考え方自体がクラリッサを主婦の型にはめているということならない?
クラリッサの閉塞感を主婦という観点から見ようとするから、原因は夫への不満やアイデンティティの抑圧とされてしまう。だからクラリッサが夫を心から愛していることへの矛盾が生じる。ウルフは難解と言われてしまう…。
でも「主婦というひな型」を取り去れば別の側面が見えてくる。
逆説的に言えば、クラリッサの『クラリッサですらなく、リチャード・ダロウェイの妻という感覚』というのはもともとそういった「全てを型にはめようとする社会」への反発だったんだろう。
(※クラリッサの分身として描かれたセプティマスは狂気を人間からの逸脱とみなし(つまり、型からはみだした者は人間ではないとみなし)、排除しようとした社会に抗議するため身を投げます。そしてクラリッサはセプティマスがやり遂げたことを嬉しく思うのです)

型をとりさってしまうと、人間ってのは実に多様な面を持ってる。
生まれ持った遺伝的な性質、周囲の人の生き方考え方、環境や時勢その他諸々…。自分というものはいったいどれだけ多くの成分からできあがっていることか。
クラリッサが「わたしは確実に故郷の木々の一部」と言うのはそのこと。
そんなの全部知ろうとしたって無理な話。頭で考えうるのはあるパターンのみなのかもしれない。だから、「頭のよさなんて大したことじゃない。感じたことを単純に言うのがいいのよ」と、サリーは言う。「心と比べたら、頭なんて何よ」
でもその心さえ本当に自由なの?サリーはこうも言う。「わたしたちはみな囚人よね。囚人が独房の壁を爪でかりかりと引っ搔く…。これが人生の真実。みんな壁を引っ搔く」
自分という独房の中で、壁をどうにかして崩そうとしている。全ての人が。そんな囚人たちの集まる場所。それがパーティ。
クラリッサの言うパーティとはこの世界そのものなのかもしれないね。
みな独房の中。だけど皆で集まったという、ただその想い出によって、きっと一つに結ばれるのです。


※追記。
こないだ、「カッコーの巣の上で」という映画を見ました。精神病院の風紀を乱しまくる型破りな主人公(ジャック・ニコルソン)は最終的にロボトミー手術(脳外科手術)により廃人同様にされてしまいます。怖すぎる…!(涙)
ロボトミー手術が広く世間に認められ始めたのが1935年。(開発者はのちにノーベル賞を受賞しました)。ウルフが自死したのは1941年。ウルフがロボトミーについて知っていたとしたらこれほどの恐怖はなかったのではないかと思います…。
ナチスドイツによるユダヤ人迫害も迫っていたしね。(ウルフの夫レナード氏はユダヤ人なのです。ナチの手がイギリスにまで伸びたその時には、二人で心中しようと夫婦は計画していたようです)

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ダロウェイ夫人

どうにも眠れないので呟いてみる。

ここんとこ、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」にはまりまくってます。
一昨年読んだ「灯台へ」があまりにも素晴らしかったので、こちらもぜひ読んでみたいと思いながら、書評を見るとどうも訳の評判があまりよろしくないようで(ごにょごにょ)、読み渋っていたんですが。
でもこないだ図書館へ行ったらなんと新訳が出てるじゃないですか!チラっと読んでみたとこ、かなり好みな文体v
で、さっそく借りてきて喜んで読み進んでいるうちに、いつしかどっぷりとウルフワールドに入り込んでしまったわけです…。

まあ、ストーリー的にはイギリス上流婦人のとある1日を描いた、特に何が起きるわけでもない話と言われているわけですが。
でも感情的には山あり谷あり(のあった過去の思い出?)だし、思考は社会や宗教、哲学にまであっちゃこっちゃとめどなく飛び回っていくしで、読んでる方は退屈どころかまったく気が抜けないのです。(ついでに視点もいきなり改行もなく別の人になったりする笑)
それにウルフ自身が「ダロウェイ夫人の分身として描いた」と序章で述べているセプティマスという青年にとっては、その日が人生最後の一日となるわけで。決して何も起きない小説というわけではないと思うんですが…。
(ウルフは構想では物語の最後にダロウェイ夫人を死なせるつもりだったのですが、この青年を身代わりに死なせ、ダロウェイ夫人を生かすことにしたそうです)

※ダロウェイ夫人…クラリッサ・ダロウェイ(51歳)。保守党の議員リチャード・ダロウェイの妻。ロンドン在住。この日は午後6時から自宅でパーティを開く予定。(首相も来るらしい)

※セプティマス…第一次世界大戦から帰還した後、シェルショック(戦争後遺症。ベトナム戦争帰還兵の例が有名)により統合失語症を発症した青年。ダロウェイ夫人がパーティ用の花を買いに出た6月の朝は、妻レーツィアに付き添われロンドンの高名な精神科医サー・ウィリアムを尋ねようとしているところ

読んでいて感じるのは、ウルフって人は不思議な人だなあ、ということ。
俗的な部分(あえて正気と言いましょうか)と狂気を併せ持ってる。ウルフ自身にとってそれは対極にあるものではなく同時にあるものなのに、社会はそこに境界を引こうとする。
ウルフは自身の正気の部分をクラリッサに、狂気の部分をセプティマスに投影させて描いたんじゃないかな…。
だけどクラリッサも周囲からはパーティ好きな俗物と思われているけど、内面には危ういものを抱えています。クラリッサは時々、無感覚というものに対する恐怖に怯えることがあるんですが、この何に対しても感情を失う無感覚というのは精神病の症状の一つだそうです。(セプティマスもこの症状におびえてます)
クラリッサは、少し前に病気を患ったことや老いのために、近年この無感覚・無力感を特に意識しているようですが、実は彼女にはもっと昔からの下地があるように思います。セプティマスを追い詰めた精神科医、サー・ウィリアムの助言を求めたことがあるという記述は、クラリッサ自身が診察を受けたという過去を匂わせているような。
私はクラリッサが受診したのは、多分母親が亡くなった時なんだろうと推測しています。(というのも、ウルフは13歳の時に最愛の母親を亡くした直後から精神を患うようになったそうなので)
出世欲も多く高名なこのサー・ウィリアムという精神科医は、患者の治療に対しよく休養という言葉を使ってますが、それは実は体のいい排除のことで、今で言えば病院に閉じ込めるといったとこでしょうか。それにしてもこの時代の精神医療のレベルの低さといったら…!
ちょっと調べたところによると、この無感覚というのはひどい疎外感をひきおこすらしいです。周りの人間が感じている楽しさや味覚(美味しさ)から自分だけが仲間外れにされているような…。
「人間の本性(一般的な感情)に逆らった罪は、死罪」と、セプティマスは呟きます。(ここらへんカミュの異邦人みたいですね。ムルソーは実際に死刑判決を受けたけど)

ってなにやら不穏な感じの話みたいになってきましたが、小説の雰囲気はセプティマス関連以外はけっこう牧歌的にほのぼのと進んでいきます。
なんていっても登場人物がみな魅力的!特にクラリッサの昔の恋人、ピーター・ウォルシュが可愛すぎでしてね!
才気に溢れ、名を揚げて当然だったのに、恋とロマンを追い求めるあまり身を持ち崩した人…。
5年ぶりにインドから帰国したその足で、朝早くからアポも取らず忙しいクラリッサのもとを訪ねてくる。使用人が押しとどめても、「おれにクラリッサが会わないはずはない」と言い張る。「おれには必ず会ってくれる。必ず、必ず、必ず」
この年になって求職中。でも今も恋をしていることが彼のステイタス。(インドで出会った人妻相手。でも彼が本当に恋しているのは今もクラリッサただ一人なのです)
強がってたくせにいきなり泣き出したり、なんとも繊細で感情豊かなピーター。クラリッサの態度を少々きつく感じたことに心の中で悪態をつきつつ、ふと「こんな時刻に押しかけたのは迷惑ではなかっただろうか」と思いつき、「オレはばか者だ。いつもながら、いつもながら」と落ち込んだり…。
クラリッサからの儀礼的な手紙も「二度と読まないだろうが、持ってると思うと嬉しい」と持ち歩いたり。
50歳過ぎてもこんなに一人の人を愛し続けることができるなんて素敵だな〜v
ピーター自身は「惚れてなんかいない!」と否定してるけど、どう見ても惚れまくってますから(笑

クラリッサの夫、リチャード・ダロウェイ氏も素敵な人なんですv
クラリッサと会ったばかりの頃のエピソードにダロウェイ氏の人柄がよく現れてる。クラリッサの愛犬が過って獣用の罠に掛かった時、ダロウェイ氏は気絶寸前の彼女を叱り飛ばして「あれを持ってきて、ここをこうして!」とテキパキと指示を出し、ちぎれかけの足に副木をして包帯をし、犬を安心させるためにまるで人間に対するように話しかけてた。
自分がその時なにをするべきかをきちんと知っていて行動できる人。クラリッサとピーターが不毛な言い争いをしている間にもこの人はやるべきことをやる。そういう人だからクラリッサは安心していられる。不安定な内面を抱える彼女にはこういった安心感が必要不可欠で、「リチャードがいてくれたから、私は生きてこられた」とクラリッサは思っている…。(ピーターと結婚したら不安定同士結局は共倒れ、共に身の破滅だっただろうと思っている笑)
なんていってもリチャード氏は妻のクラリッサを深く愛しているんですよね〜。パーティ準備中のクラリッサへ白と深紅の薔薇をおみやげに持ってきたり(二人が出会った日、クラリッサは白と赤のドレスを着ていました)、クラリッサの手を取って「これが幸せだ」と思ったり…。


物語の最後、パーティに訪れたサー・ウィリアム夫妻から、ある青年(セプティマス)が投身自殺を図ったことをパーティに遅れた言い訳として聞かされるクラリッサ。
「私のパーティに死を持ち込むなんて!」と(心の中で)憤慨しながらも彼女は見たこともないその青年に自分と似たものを感じる。
ボーダーを引こうとする社会、その代表ともいえる精神科医の手を逃れるために身を投げたセプティマス。彼は最後に思う。「できるものなら死にたくない。生きるとはいいものだ」と。
彼は死の数時間前に正気に戻っていたのですが、彼が狂気から覚め、数週間ぶりに大笑いし、生に対し肯定的になれたのは彼の妻レーツィアのおかげかと。
レーツィアは知的で優しかった夫が徐々に狂っていくのに耐えられず、一時は「死んでくれた方がまし」とまで思いつめましたが、サー・ウィリアムの診察結果を聞いた後、医師の考えや態度に反発して夫の味方につくんですね。夫と自分を引き離し、「休養」させようとするサー・ウィリアムは敵だと。「私たちは見放された」とレーツィアは思ったのです。「セプティマスは」ではなく。
「私たち」という言葉に含まれるこの受容…。彼女は切り捨てない道を選んだんですね。
「私たちは離れません」とレーツィアは力強く宣言する。そしてセプティマスが狂気に飲み込まれながら描いた絵や文を「いくつかはとても美しい」と綺麗に束ね、「とっておきましょう」と言う。
(狂っている状態のセプティマスから見える世界は、えもいわれぬほど美しく、詩と啓示に満ちているのです)
セプティマスは狂気の部分をも受け入れてくれたレーツィアを通し、世界に受容されたことを感じて正気に戻る…。

クラリッサはパーティの最中にもかかわらず、一人部屋に入り自分に似た彼の死を思う。青年の死を聞いた時、クラリッサはその最後を追体験した。絶命の闇が、クラリッサにも見えた。
そして彼がやりおおせたことを嬉しく思い、死の誘惑を感じながらも、彼女は生の美と楽しさを実感する…。
うーん、この辺はまだよく考えが形にならないけど、一つだけこうじゃないかな、と思えることがあって。
こういう話を聞いたことがあるのです。死を目前に意識した人から見える風景は、とてもとても美しいということを。
以前、「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という癌に侵された医師の自伝(本にしたのは奥さん)を読んだんですが、余命を宣告されたとき、その医師は周りのなんでもない風景、その生の一つ一つが眩しいほど輝いて見えたのだそうです。全てがキラキラと光の粒子を放っているかのように。
クラリッサは一度死ぬことで(実際に死んだのはセプティマスですが)、「向こう側から見える世界」を見たのではないか、と私は思うのですが…。

正気と狂気を行ったり来たりし、何度も自殺未遂を繰り返したというウルフ。彼女も同じ風景をみたのかな。
狂気に飲み込まれる不安に怯えながらも、その狂気こそが自分に作家としてのインスピレーション(世界の美しさ)を与えてくれることをウルフは知っていたんでしょうね。

しかしまだまだわからない所が沢山あるなー!
誰か1行1行説明してくれる人はいないものか…。(と思って考察本買っちゃった。届くの楽しみv)

あ、どうしても気になることが一つ。
今回、説明を求めて色々ネットを検索したんですが、かなりの確率で「めぐりあう時間たち」という映画と混同されてるんですよね。なんかそれ、すごく嫌なんですが…。ダロウェイ夫人をベースにしてあるというこの映画、私も以前見たことあるんですが、こんな陰鬱な話と一緒にされるなんて!(涙
特にローラという女性にどうにも共感できないんですよ。
ローラは「ダロウェイ夫人」を読んで、一見周りからは幸福に見える自分の仮面に気付き、「自分らしく生きるため」夫と子供を捨てて蒸発してしまうのです。
うーん、色々悩みがあったにしても、後悔すらしないなんて…。ただの身勝手で非情な人間としか思えない。
確かにクラリッサも今の生活に対し虚しさを感じている…という記述はありましたが、それはローラの「周囲(夫や子供)が望む自分でなければならない」という窮屈感ではなく、クラリッサ自身が「よい人間でいたい」と願うために、自分の理想からはみ出た部分を隠すしかなくて、そのことに苦しんでいたと思うのです。
>欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分はおくびにも出さないようにしてきた。(本文より)
つまり「こうあってほしい」と望む誰かが窮屈なのではなく、「こうありたい」と望む自分自身が窮屈なわけですね。
いい人でいたいというのは、まあ悪く言えばいいかっこしいということで、ピーターなんかはそれを見抜いて意地悪を言ったりするので、クラリッサはある意味図星なだけに深く傷つくんですよね。
それにしてもクラリッサの「周りからいい人と思われたい」「常識的でいたい」という願望はちょっと脅迫観念的に強すぎる部分もありますね。
それは幼いころサー・ウィリアムの診察を受けた際、「はみだしたら排除される」という恐怖を感じたことがトラウマになってるのかも?と思います。

あと、自分のしていることが周りに不当に評価されるということも、虚しさの原因だと思います。
「クラリッサはパーティ好きの俗物」とピーターや旧友サリーまでもがそんなことを言っていてはクラリッサとしては虚しくなるのも当然って感じですね。
でも、パーティは成功や夫の出世のためだけではなく、クラリッサの唯一の芸術的自己表現であり、人々への貢献であり、自分を捧げる仕事でもあるわけですよ。
これはクラリッサの「関係性」という独特の世界観によるものなんですが、人と人との関わり、そのきっかけを作ることで、自分はその人たちの記憶や人生の中に生き続けていけるだろうという…。
芸術家が絵や文章を書くように、書くことも弾くことすらもできない自分はそうやって何かを残していくのだと。(こういう考えについては、「灯台へ」の方がより完成されています)

少々脱線しましたが映画の話に戻って。
ローラが「ダロウェイ夫人」を読んで自分の偽りの生活に気が付いたのは事実だろうけど、その後の行動までこの本に負っているという印象を与えるのはいかがなものかと。
なによりもこの映画では、ウルフの大きな魅力である、活き活きと生を楽しむ感じや精神の高揚、周りの人に対する溢れんばかりの愛情や深い感謝の気持ち、思いやりや優しさ、煌めくようなユーモア等々…が全く表現しきれてないんですよね。
自死したことや、暗く神経質な部分ばかりがやけに強調されてるように感じる。
ゲイとかマイノリティとか、そういう話はありだと思うし嫌いではないけど、別にウルフを絡めなくてもいいじゃない、と思います。確かに「ダロウェイ夫人」にはそういったテーマも含まれてるけど、それは一部であり全部ではないので。混同はされたくないなと。
いったい原作者はウルフのファンだったの?それとも何か別の理由があった?
個人的な思い入れを語るのは自由だけど、こうして作品にされてしまってはただでさえ理解し辛いと言われているウルフが色眼鏡で見られるみたいで、なんだか嫌な気持ちがします。


…言いすぎたので話題変更。
あー、「死と狂気」の他にも「世界が違ってみえること」がもう一つあるとウルフは作中で言ってますね。
それはズバリ「恋」でしょう!
若き日のクラリッサにはその人が「キラキラと光を放って」見えたそうです。皆がなぜその人に無関心なのか不思議なくらい…。そして「今死ねば、この上なく幸せだろう」と思ったんですね。恋が日々の生活に色褪せてしまわないように。
とここまで書いて唐突に思いついたこと。
物語の最後を飾ったのがピーター・ウォルシュだったのは、もしかして彼が今も恋し続ける人だから?
彼はパーティの間ずっと、クラリッサが自分のところへ来てくれるのを待ちわびてる。そりゃもう一緒にいたサリーが「早く来てあげて」と同情してしまうほどイライラしながら。(笑)
「クラリッサはまだか〜クラリッサはまだか〜」なんて、もうどこまで可愛すぎなんでしょうかこのおじさんは!!!
ピーターはクラリッサと出会うたび、何度でも彼女に恋をし続ける。
クラリッサは「幸福な瞬間」を死によって永遠に閉じ込めたいと願ったけど。(そしてセプティマスもそうだったのかしら?と思ったけど)
だけどもしかしたら、その瞬間は何度もやってくるものなのかもしれない。何度でも何度でも繰り返す。生き続けているかぎり。
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